解説コラム ① / カルカッタの路上生活者と難民


カルカッタの路上生活者は、カースト(植民地支配下の身分制度とその以前からの慣習的差別)がベースですが、不可触の民はカーストの外の下で、ヒンズー教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、ゾロアスター教徒等々、宗教の差別も重なっている上、僕の旅の当時は、バングラデシュからの難民が流入した特別な時期でした。

(kondo)

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不可触の民とは

近藤青年は、カルカッタで「不可触の民」の姉妹に出会いましたが、不可触の民とはどの様な人々なのでしょうか。

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不可触民(ふかしょくみん/untouchable)。カースト制度の外にある層で、カーストの最下層よりも身分が低い自らを「ダリット」=「抑圧された者」、「困窮した者」と呼ぶことが多い。

可触民は、街の外れや村の隅に住むことを余儀なくされ、他の層の人々と関わることや様々な場所(上階層の土地や寺院、村の井戸など)へ立ち入ること等、禁止されていた。

1950年、憲法によりカースト制度および不可触民への差別が禁止になったが、その後も、社会的・経済的な不平等は現存しており、憎悪犯罪や深刻な貧困など、根深い問題を抱えたまま、今も解消されずにいる。

近藤青年が出会った姉妹も、人権を制限された大勢の人々の一人でした。

「当時、死は当たり前だった。街には、死んでいるのか死んでいないのか分からない様な人々がたくさん横たわっていて、よけながら歩く状況だった 」と、近藤氏は話しています。

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バングラデシュの難民

難民の問題は、当時も今も困難なテーマのひとつです。近藤青年がインドに渡った当時、バングラデシュ独立戦争や第3次印パ戦争などによる難民が大勢避難してきていました。

近藤氏が言うには、「難民居留地内には、きちんとした規律があり、遵守されていた」。一方で、「大都市に人々が溢れ出てしまうと、そこでトラブルが起こりやすくなる」とも言っています。

バングラデシュと自然災害

バングラデシュは、地理的な条件により自然災害の被害を受けやすい。1970年に起こった史上最悪な自然災害のひとつ「ボーラ・サイクロン」では、最大50万人の人命が失われたとされている。

この災害による一連の出来事が引き金となり、1971年、バングラデシュ独立戦争が勃発。その際、東パキスタン(バングラデシュ)で民間人の大量虐殺が発生し、多くの難民が隣国インドに避難した。その後、インド軍が介入、第3次印パ戦争が始まった。

バングラデシュ人民共和国

首都はダッカ。日本の4割ほどの国土に、約1億7000万人が暮らしている。元々はインドの一部であったが、宗教上の理由により東西に飛地する形でパキスタンが独立。その後、東パキスタンが独立してバングラデシュとなった。上記で述べたように災害が多いことから「被災と貧困のスパイラル」が問題となっている。

バングラデシュは多くの難民を出しているが、多くの難民を受け入れている。現在、コックスバザール地域にある難民キャンプでは、ロヒンギャ難民を受け入れている。


(ライターO)


*インド・カルカッタの記事はこちら

1) 旅の始まり/インド・カルカッタ(1日目) 

2) インド・カルカッタ(2日目) 

3) インド・カルカッタ(3日目 ) 


*次の記事はこちら↓

「汽車と馬車」/ インド・ブッダガヤ ① 


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