「インドの人々と何者でもない自分」/インド・カルカッタ(2日目)

 

◇◇◇

1975年3月2日

早朝、ホテルの前にいる路上で暮らす姉妹の子をスケッチした。二人を描き終えたら「エクー、エクー」と言ったので、1ルピーを渡すと一人1ルピーだと年上の子が言い、更に1ルピー要求してきた。子どもでも彼女たちは簡単に引かない。結局もう1ルピーはバクシーシ(イスラム式の神の御加護)で決着した。モデル代二人で2ルピー。ホテルは1泊6ルピー。

ハウラ駅に学割チケットの申請に行き、その後ホワイトタイガーを見に動物園に行き、園内のレストランでフライドライス(3ルピー)を食べた。ハエはいないが砂が混じっていた。水が貴重で野菜を丁寧に洗わないからだ。仕方ない、ハエよりましだ。食事ができ余裕が生まれたのか、動物園を出るとまわりの気配を感じられるようになった。

この先に何かがあると直感し道の奥へ向かった。そこに褐色のテントが広がっていた。

 テントは屋根と柱だけか褐色のボロ布を棒に付けた陽除けに近い。近年のニュースで見る国際支援組織のしっかりとしたものではない。そこに街の喧騒はなく、横たわる人たちは死んでいないようだが生きている気配もなかった。何故かわからないけれど、この光景を描かなければならないと思った。道具を広げようとしたら佇んでいた人たちが立ち上がり僕に近づいてきた。僕は襲われるような気がして慌てて逃げ出した。ホテルに戻り、また慌てた。カバンにはスケッチブックしか入っていない。筆箱を忘れてきたらしい。今から戻っても筆箱はない気がした。旅の始めから筆箱を無くすなんてと一瞬途方にくれたが、気を取り直し、あの場所へ戻ろうと僕はホテルを出た。

帰りに乗って来たリキシャがホテルの前にいた。行き先を告げると首を斜めに振った。OKという返事だ。リキシャの男は何も聞かず来た道を行く。明治時代、日本も人力車があった。インドでも「リキシャ」と呼ぶ。インドの他の街では、リキシャが自転車と連結されていて、人がペダルを踏んで動かすが、カルカッタは人が引く。黙々と走る男の足は棒のように痩せている。灼熱と喧騒の中を流れるように行く老いた男の後姿を見ていて、何故か涙が出ていた。惨禍の人々の風景に、何者でもない自分がいる。

 その場所に戻ると、前に気付かなかった事務所らしい建物があった。そこから職員風の男の人が出てきて布袋から筆箱を取り出し、「ここにいる人たちは何も持っていないが、泥棒ではない。」と僕に英語で告げた。座り込んだ僕を見て近くにいた人たちが心配して近づいたが、僕が勝手に襲われると思い込んだらしい。彼の説明を聞き、自分が恥ずかしかった。深い眼差しで僕を見つめ、「ここで絵を描く人はあなただけだ。」と彼は言った。そして、それまで彼が肩にかけていた双眼鏡を僕に差し出した。双眼鏡を通し見えてきた光景は不思議な臨場感があり、僕は夢中で写生した。

 世界には偉人が何人もいる。映画監督のサタジット・レイもその一人。作品には悠久の時が流れている。カルカッタは喧騒に明け暮れていたが、この難民居留地はサタジット・レイの作品の中にいるようだ。人を隔てているのは富と貧困ではなく、生と死でもない。そのことに気付けば、人間も世界も、何もいらない。

 ‐

 長い一日が終わりかけていた。慌てた自分の心の狭さ、疑心暗鬼を繰り返すことで心が疲れきっていた。暗くなり始めた夕方、ホテルに戻ると朝写生した姉妹の上の子が一人で入口近くにいた。何か言いたそうだったけれど、「明日、明日」とあしらうような態度で僕はホテルに入ろうとした。安宿でも入口には誰がいて路上生活者は近づけないのだが、その時は誰もいなかった。その子の手が一瞬僕の体に触れたけれど、僕はそれを振切り、中に入ってしまった。シャワーを浴び爆睡した。夜明けに目がさめ振り切った時の記憶が蘇った。僕は大事なことに気付かなかった。その子が不可触の民であることを。




(kondo)

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