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「聖なるガンジス川を泳いで渡る。少年とフィッシュカレー」/インド・ベナレス

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  「ガンジス 祈りの残像」近藤幸夫 ◇◇◇ 1975年3月26日 ノータンワ →ゴラクプール(経由)→ベナレス ◆ベナレスに到着 ノ ータンワから夜行列車でゴラクプールを経て、朝8時30分にベナレスに到着した。 リキシャでツーリスト・インフォメーションオフィスへ行くと、偶然テッドと再会した。話しをゆっくりできないまま別れ、僕はサンスクリット大学へ向かった。 日本を出る前、多摩美大の先輩からベナレスに長く住む浅野さんを訪ねるように言われていた。研究室で日本の味噌汁をご馳走になった後、ガンジス川のハウスボートに泊まることを勧められ、彼が同行し宿代の交渉もしてもらった。 『ハウスボート・ガンガ リヴァーサイド』、素敵な名前だと思ったが、並んでいた船はみな同じ名前だった。船には、電気も水道もないが、ガンジスの水さえあれば、何とかなるのだろうか。船のトイレは垂れ流しだしだけれど、などと少し弱気になった。でも、せっかくだから僕は泊まることにした。1泊2ルピー。 ー ◆ガンジス川に飛び込む 午後、パスポートとお金などの貴重品、シャツとサンダルを防水の袋に入れて背負い、僕は川に飛び込んだ。 特に泳ぎが上手いわけではないが、流れを考え斜めに方向を定め、対岸を目指しながら泳いだ。 始めは問題なく進み、何とかなりそうだった。流されてきた流木の塊につかまって、流されるままに休んだ。次は底に横たわっていた木に足をつけて休んでからまた岸を目指した。予想より随分と流されたが、ようやく岸の近くまで来た。 川底に足を着こうとした時、水辺に屍の一部が漂着しているのが見えた。僕の足元にも屍があるかも知れないと思ったら、体がすくみ、慌ててもがくように引き返した。 途中で、タイミングよくボートが近づいてきた。ボートの少年がオールを差し出してくれたので、それにつかまり英語で「サンキュー」と言うと、僕がインド人でないことがわかったようで彼はニコニコしている。袋を背負って泳ぐ僕の姿はまさにカモネギに見えたに違いない。僕は、また浅はかにそう思った。 ー ◆少年とポケット 小さなボートの中は魚がからまったままの網が放られていた。彼は漁の帰りのようだ。彼はハウスボートの場所を知らなかったので、どこへ行ってくれるのかわからなかった。結局、ハウスボートと遠く離れた場所でボートを降りることになった。 僕は財布を出して(乗船

「ビスケットと素焼きカップの不思議な習わし」/インドとネパール

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  ◇◇◇ 1975年3月25日 ポカラからインド国境へ ◆ネパール・ポカラ → 国境の町「ソノリ」 → インド鉄道駅「ノータンワ」  ポカラからネパール国境の町ソノリまでバスで行き、徒歩で国境を越えバスでインドの鉄道駅ノータンワへ。情けないことに僕のノートは何故か大切なことが記されていない。「国境ノーパンはダメ!ノータンワ!」って、今読むとバカかお前はと自分に言いたい。おかげさまでインドでは「リキシャ」と同じように馬鹿を「バカ」と発音することを思い出した。 ー ◆インド式コーヒー/「マドラスコーヒー」と「Nestleコーヒー」 同じページにテッドのアドレスが記されていたが、インドのどの街で会ったのか正確に覚えていない。ホテルの庭のようなところで一緒にコーヒーを飲んだ記憶はある。 マドラスコーヒー35パイサ、Nestleコーヒー70パイサとメニューにあった。コーヒーの違いが気になり両方を注文した。インドはチャイしかないと思っていたので意外だった。 マドラスコーヒーは、インド産のコーヒー豆を使った甘いミルクコーヒーで、香りもよく美味しかった。一方Nestleコーヒーは、Nestleと印刷された5センチほどの缶とお湯が入ったポットとミルクが別々にきて、自分で合わせて飲むようだ。缶の大きさからすると数杯分はありそうだし、レトロな缶はお土産に持って帰れるかも知れないと想像したが、ふたを開けるとやっぱりインドだった。中にインスタントコーヒーの粉がスプーン一杯分だけ入っていた。 Nestleのインスタントコーヒーの方がインドでは高級らしい。Nestleは英国かアメリカの会社だと僕は思っていたが、テッドがスイスの会社だと教えてくれた。 ー ◆ビスケットと素焼きカップの不思議な習わし インドでテッドと話した記憶から、僕はソフィーとの不思議な体験の続きを思い出した。スイスはソフィーの国だから。僕たちがボートに乗った後で、写生を仕上げるために彼女のホテルへ寄った。 そのホテルは、僕が泊まっていたセンターヴィレッジより高そうで、メイドさんらしい女性がテラスにティーセットを運んできた。その人は紅茶を淹れると、器の中のビスケットをスプーンで叩いて割った。さりげなくやったことが不思議で二人で理由を聞いた。 旅人が出会い互いに心を通わせた時、(ビスケットのような)食物を割って分かちあい、破片の数

【コラム③】近藤幸夫が旅に出るまで ー 万博少年~美大生篇 ー

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  ◇◇◇ 1970年は、出会いの年だった。 (O)  ユーラシア大陸の旅へ出ようと思ったきっかけは何でしょうか? (K) 話はさかのぼりますが、17歳の当時、僕は、 思春期の若者の多くが考えていたのと同じように、社会の矛盾に疑問を感じていました。そんな僕にとって、 1970 年は「人生における邂逅の年」でした。 始まりは、大阪万博に入り浸る。 (K) 1970年は、大阪万博が開催された年でした。その万博に僕は入り浸り、第三世界に惹かれていきました。 (*第三世界とは、西側にも東側にも属さない国のこと。冷戦時代に使われていた言葉。現在は、発展途上国・後発発展途上国・グローバルサウス等と呼ばれている)。 (O)  先生は当時、新潟市に住んでいたと思いますが、入り浸るというのはどの様に? (K)  大阪万博が開幕した数日後に、住んでいた新潟から大阪へ 15 日間の「万博の旅」に出ました。高校 1 年生の 3 学期が終わった直後、中学校時代の友人二人と出発しました。 その友人の親戚のおじさんが旅行会社で働いていて、格安の宿と汽車の切符、万博の入場券を手配してくれました。 入場券は、 7 回券 2 枚綴り( 2 週間分)を購入。 5 ~ 6 千円ほどだったと思います。それに加えて、宿泊代・食費などで、一人 1 万 5 千円くらい。合計 2 万円程度かかりました。(*当時の平均月収は 5 万円) このお金は、半年前から郵便の仕分けや本の配達など、アルバイトをして貯めたお金です。旅行中は節約のため、修学旅行用の旅館やラブホテル、従兄弟の家などに泊まりました。 食費も節約していたので、いつも空腹状態でしたが、バングラデシュかパキスタンだったかな、パビリオンで食べたカレーがとても美味しかった記憶があります。   (O)   1970 年に本場のカレーってすごく新鮮な体験で美味しかったでしょうね!   次の旅は、日本横断・自転車旅。そこで出会う。 (K)  高校 2 年生の夏休みに、今度は自転車旅に出ました。新潟から仙台までの往復、最短に近い日本横断旅行です。 高校の同級生と二人で、ユースホステルやテント、あるいは野宿をして、合計 1 万円かからなかったかな。今考えると、たくましい!   その時、シルクロードを旅した人と出会って、大学に入っ

「彼女はいつも自然をよく見ている」/ネパール・ポカラ

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  ◇◇◇ 1975年3月20日~ 25日 ポカラの日々 「パイショップ&レストラン」  この店と店の人は人気があるらしく、 日没が近づくと店に客がたくさん集まってきた。 店内は 10 人くらいしか入らない。 「今晩は星がたくさん待っているから、テーブルを外に出そう!」とオーナーらしい店の男が客たちに呼びかけると、みんなで大きなテーブルを前庭に出して適当に座った。 - 目の前に広がるヒマラヤの山々が星明りで鮮やかに見える。そこにいるほとんどは、ヒッピーとバックパッカーの欧米の若者たちだった。食事のメニューは少ないけれど、どれも美味しそうだ。店の名前のとおり、パイの種類は多い。村で採れたフルーツのパイやデザートが自慢らしい。飲み物は、紅茶かチューラーというヨーグルトの混ぜ物、または水。アルコールはないのに、なぜかみんな酔っ払っている。僕は頭痛がしてコメカミを揉んでいると、隣に座っていたヒッピー風の女の人が話しかけてきた。 パイショップから見えたアンナプルナ アップルパイには「ハッシッシ」が、チョコレートパイには「ガンチャ」が入っているらしい。ハッシッシは大麻樹脂、ガンチャは覚醒作用の強い植物の樹液を固めたものとのこと。シルクロードでは昔から作られていると言う。ポカラみたいな村では常備薬として、農家の庭で栽培しているそうだ。 彼女は僕の数日の移動状況を聞き、頭痛はハッシッシ入りパイを食べたせいではなく、短期間に高度差のある場所を続けて移動したからではないか、と分析した。僕が納得すると、彼女は持っていた鎮痛薬を僕にくれた。長い旅では、薬は貴重品だ。「薬代を払いたい」と言うと、「私は医者じゃないから」 と断られた。そこでもう一度、「ホテルに帰れば日本から持ってきた薬があるから、もらった薬の替わりに渡したい」と言うと、ようやく彼女は承諾した。翌日にまた会うことになった。  ◇◇◇ 「フェワ タル レイク」 昨晩はパイと頭痛で彼女の名前も顔もちゃんと覚えていなかったが、待ち合わせたパイショップの店先には他に人がおらず、彼女だと直ぐわかった。その人は凄い美人だった! 「調子どう?」と聞かれて、本当は調子よくなかったのだけれど、調子よく「 OK ! 」 と言ってしまった。 まだ修行が足りなかった。パイショップはやっていなかったので、貸しボートに乗った。男性として僕が

「山には雷雲が近づいている」/ ネパール・カトマンズ ~ ポカラ

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  ◇◇◇ 1975年3月13日~14日  国境を越えて ナーランダーからパトナー、ガンジス川を渡り、陸路でインド・ネパール国境を越え、ビルガンジーを経てネパールの首都・カトマンズに到着。   ー 3月14日~18日    カトマンズ/パタン(ラリトプル)   夕方遅くカトマンズに着く。 ネパールにインドのようなツーリストバンガローはない。バス停の客引きの案内でホテル【スノーランド】へ。一泊・ 3 ネパールルピー(約 90 円)。  食堂【 Eat at Joo】 で水牛の肉・バフステーキを食べた。うまいが、やばい!(危険!)。その後、ホテルに帰り爆睡。朝から激しい下痢。  気候も街の雰囲気もインドとは違い、ネパールは落ち着いている。「リキシャ」はいないが「貸し自転車」があり、たいていの場所には行けそうだ。街は異国情緒と懐かしさが不思議に調和している。 自転車で訪れた古都・パタンは、日本のような木造建築が多く、親近感を持った。 しかし、僕は、ネパールに長くいられないような気がした。   ー 3 月 18 日~ 19 日 ナガルコット 早朝、バドガオンまでバスで行き、トレッキングコースを2時間半ほど歩いて、ヒマラヤを望むナガルコットの村に着いた。雄大な名前の【マウント・エヴェレスト・ロッジ】に泊まる。一泊・ 5 ネパールルピーは、カトマンズのホテルより高い。 翌日の朝方、毛布をはおりロッジの外で夜が明けていくヒマラヤの山々を見ていると、瞑想している気分になる。 6 時に陽が昇り、「瞑想」は「迷走」を悟る時間だったと分かった。 ここからエヴェレストは遥かに遠い。近くに見えると思った浅はかな僕を、エヴェレストは突き放している。 ロッジの宿泊代は「瞑想付き」だから高くない。雄大な名前もありがたい。朝食の後、ロッジの息子さんが言いにくそうに話し始めた。ポカラからジョモソンへのトレッキングが禁止されているのは、半年前に起きたチベット族との戦闘の影響だそうだ。僕がカトマンズで、エヴェレストのベースキャンプまでトレッキングの申請をしたことを彼に話していたため、心配して教えてくれたのだろう。ネパールの治安は僕が思うほど よくないらしい。 この国は長閑に感じていたけれど、山には雷雲が近づいているようだ。 ー 3 月 19 日~ 20 日 ナガルコット ー カトマンズ ー

「世界最古の大学で夢想する」/ インド・ナーランダ

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◇◇◇ 1975年3月12日 ラジギール/出発 → ナーランダ    早朝、部屋の入り口のドアをノックする音で目が覚めた。ドアを開けると、山羊を連れた老人が立っていた。山羊も一緒に 2 階の部屋まで上ってきたらしい。 いきなり、彼は「カップ、持っていないの?」というようなジェスチャーをした。部屋にあったカップを渡すと、彼は手際よく山羊の乳を搾りカップに注いだ。そして、指 3 本合わせた右手を、胸から僕の方へゆっくりと向けた。「バクシーシ(お金を下さい)」というジェスチャーだ。 財布からお金を出そうとすると、今度は「いらない」というジェスチャーをする。僕が戸惑うと、「コインを出せ」というジェスチャー。僕はありったけのコインを手の平に乗せて差し出した。彼はその中から一枚だけ選び、首を横に傾けた。「これで OK 」というサインだ。それは四角い形の1パイサ( 0.4 円)だった。 僕は、老人と山羊が帰って行く後ろ姿を窓から眺めながら、優しい不思議な余韻を感じた。 スケッチブックより ー  バスと馬車を乗り継いで、午前中にナーランダーへ到着した。  ナーランダーは、 5 世紀頃から凡そ 750 年にわたり栄えた世界最古の大学僧院だ。しかし今は、併設されたミュージアムの所蔵品以外、当時を偲ばせるものは何もない。日差しを遮るものもなく、遺跡の大部分は褐色の焼きレンガで作られた壁と床の基礎部分だった。訪れる旅行者もほとんどいないらしい。   かつて玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師)が何年もかけ旅してやってきた 「 天竺 」 と呼ばれ る 地に、今僕はいる。  子どもの頃、天竺は空想の世界か仏教の聖地くらいに思っていた。 ナーランダーを知ったのは、 旅の計画を立て てい た時 に見た 美術全集 だ 。 正直、 写真 からは 訪れたいと思うような魅力 は感じ なかった 。 でも当時、 ここには世界の英知が集結し、数千人 も の学生と研究者がいたらしい。 だが、 1200 年頃に大学僧院は滅び、仏教の盛んだった国々も信者も消えてしまった。「ナーランダーってナンナンダー!」と叫びたかったけれどバチがあたりそうで 、 やめた。   入館したミュージアムに冷房装置はなかったが、容赦ない日差しでまいった頭と体を冷やすには快適だった。展示されている像を観ているうちに、在りし日のナーランダ

「サドゥーに会う」/ インド・ラジギール

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  ◇◇◇ 1975年3月10日 ブッダガヤ/出発 → ガヤ/経由 → ラジギール   早朝からバス乗り場でラジギール行きのバスを待ったが来なかった。よくあるらしい。別のバスでガヤに行き、そこから乗り換えることにした。 3 時間半遅れてようやくブッダガヤの村を出発。途中ドライバーがバス停でない場所で車を止め、汚れた布を纏った老人を乗せた。 その人は車内の通路の床に片膝を立てて座った。乗客たちは乞食を乗せたことに抗議しているようだ。僕は乞食のような仙人のようなその人にすごく魅かれ写生をしたかった。しかし、この人に英語が通じるとは思えない。傍の人に通訳できるか尋ねたが、即断わられた。 誰かが僕らの話しを聞いていたらしく、「ミスタール!」と、僕を呼ぶインド訛りの英語が後ろから聞こえた。後にいた人は、地元の言葉 ( たぶんベンガル語 ) で乞食仙人に話しかけてくれたが、まったく反応がない。後ろの人は話すのを諦め「ドゥイット!」、「写生をしちゃえ」と僕に促した。僕は乞食仙人が怒ったり気を悪くしたりしないか心配だったが、後ろの人は「こいつは壊れてる」とサラッと言った。 僕は近づきスケッチブックを取り出した。すると乞食仙人は腰につけていた小さな真鍮の鉢を出し前に置いた。金を入れろということかと思い、財布を出して中を確かめた。 5 ルピー札1枚とコイン数枚しか入っていない。この状況で乞食仙人にお釣りを下さいとは言えない。思い切って 5 ルピー札をその鉢に入れた。 ブッダガヤでの一週間分の宿代と同じ 5 ルピー。無理やり写生をさせてもらったお礼だから仕方がない。 走るバスの中で写生を始めると次々に乗客がきて、僕が描いているスケッチブックを覗き込み、鉢にお金を入れて行く。乞食仙人は目がほとんど見えていないのか、一言も言わず、街に着く前にバスを降りていった。 「誰だ、この人は?」と思っている僕の気持ちが伝わったのか、ドライバーが、「サドゥー」と言った。フムフム、「サトウさん」ならぬ「サドゥーさん」か、と思っていたら、「サドゥーは彼の名前じゃない、旅の行者です」と後ろの通訳してくれた人が説明した。 サドゥーの意味はよくわからなかったが、彼の旅は楽じゃなさそうだ。 スケッチブック -- ガヤで 11 時発のラジギール行きのバスを待つが、午後 2 時になってもこない。やっぱり、インドだ