【コラム③】近藤幸夫が旅に出るまで ー 万博少年~美大生篇 ー

 


◇◇◇

1970年は、出会いの年だった。

(O) ユーラシア大陸の旅へ出ようと思ったきっかけは何でしょうか?


(K) 話はさかのぼりますが、17歳の当時、僕は、思春期の若者の多くが考えていたのと同じように、社会の矛盾に疑問を感じていました。そんな僕にとって、1970年は「人生における邂逅の年」でした。


始まりは、大阪万博に入り浸る。

(K) 1970年は、大阪万博が開催された年でした。その万博に僕は入り浸り、第三世界に惹かれていきました。

(*第三世界とは、西側にも東側にも属さない国のこと。冷戦時代に使われていた言葉。現在は、発展途上国・後発発展途上国・グローバルサウス等と呼ばれている)。


(O) 先生は当時、新潟市に住んでいたと思いますが、入り浸るというのはどの様に?


(K) 大阪万博が開幕した数日後に、住んでいた新潟から大阪へ15日間の「万博の旅」に出ました。高校1年生の3学期が終わった直後、中学校時代の友人二人と出発しました。

その友人の親戚のおじさんが旅行会社で働いていて、格安の宿と汽車の切符、万博の入場券を手配してくれました。

入場券は、7回券2枚綴り(2週間分)を購入。56千円ほどだったと思います。それに加えて、宿泊代・食費などで、一人15千円くらい。合計2万円程度かかりました。(*当時の平均月収は5万円)

このお金は、半年前から郵便の仕分けや本の配達など、アルバイトをして貯めたお金です。旅行中は節約のため、修学旅行用の旅館やラブホテル、従兄弟の家などに泊まりました。

食費も節約していたので、いつも空腹状態でしたが、バングラデシュかパキスタンだったかな、パビリオンで食べたカレーがとても美味しかった記憶があります。

 

(O) 1970年に本場のカレーってすごく新鮮な体験で美味しかったでしょうね!

 

次の旅は、日本横断・自転車旅。そこで出会う。

(K) 高校2年生の夏休みに、今度は自転車旅に出ました。新潟から仙台までの往復、最短に近い日本横断旅行です。

高校の同級生と二人で、ユースホステルやテント、あるいは野宿をして、合計1万円かからなかったかな。今考えると、たくましい!

 その時、シルクロードを旅した人と出会って、大学に入ったら在学中に旅に出ようと決めました。


家出して、決意する。しかし。 

(O) その後、美大に進学して、大学3年生の頃に中近東や西南アジアに旅に出ますね。

 

(K) はい。高2の時、進路選択に悩んだ僕は、その年の11月に家出をしました。そこで色々考えて、親への言い訳のために美術大学への受験を決めたのです。

 しかし、美大に入ってみたら、先生たちは処世術に励み、学生たちは上手に絵を描くことに没頭して画家になることばかり考えていました。

僕は失望して、山岳部の山行とアルバイトの日々を過ごし、勉強はほとんどしていませんでした。

 そんな中、シルクロードの美術や遺跡から芸術のルーツを探す、無謀で壮大な計画を立て、準備を始めました。

 

つづく


(文・O)


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