投稿

8月, 2024の投稿を表示しています

「世界最古の大学で夢想する」/ インド・ナーランダ

イメージ
◇◇◇ 1975年3月12日 ラジギール/出発 → ナーランダ    早朝、部屋の入り口のドアをノックする音で目が覚めた。ドアを開けると、山羊を連れた老人が立っていた。山羊も一緒に 2 階の部屋まで上ってきたらしい。 いきなり、彼は「カップ、持っていないの?」というようなジェスチャーをした。部屋にあったカップを渡すと、彼は手際よく山羊の乳を搾りカップに注いだ。そして、指 3 本合わせた右手を、胸から僕の方へゆっくりと向けた。「バクシーシ(お金を下さい)」というジェスチャーだ。 財布からお金を出そうとすると、今度は「いらない」というジェスチャーをする。僕が戸惑うと、「コインを出せ」というジェスチャー。僕はありったけのコインを手の平に乗せて差し出した。彼はその中から一枚だけ選び、首を横に傾けた。「これで OK 」というサインだ。それは四角い形の1パイサ( 0.4 円)だった。 僕は、老人と山羊が帰って行く後ろ姿を窓から眺めながら、優しい不思議な余韻を感じた。 スケッチブックより ー  バスと馬車を乗り継いで、午前中にナーランダーへ到着した。  ナーランダーは、 5 世紀頃から凡そ 750 年にわたり栄えた世界最古の大学僧院だ。しかし今は、併設されたミュージアムの所蔵品以外、当時を偲ばせるものは何もない。日差しを遮るものもなく、遺跡の大部分は褐色の焼きレンガで作られた壁と床の基礎部分だった。訪れる旅行者もほとんどいないらしい。   かつて玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師)が何年もかけ旅してやってきた 「 天竺 」 と呼ばれ る 地に、今僕はいる。  子どもの頃、天竺は空想の世界か仏教の聖地くらいに思っていた。 ナーランダーを知ったのは、 旅の計画を立て てい た時 に見た 美術全集 だ 。 正直、 写真 からは 訪れたいと思うような魅力 は感じ なかった 。 でも当時、 ここには世界の英知が集結し、数千人 も の学生と研究者がいたらしい。 だが、 1200 年頃に大学僧院は滅び、仏教の盛んだった国々も信者も消えてしまった。「ナーランダーってナンナンダー!」と叫びたかったけれどバチがあたりそうで 、 やめた。   入館したミュージアムに冷房装置はなかったが、容赦ない日差しでまいった頭と体を冷やすには快適だった。展示されている像を観ているうちに、在...

「サドゥーに会う」/ インド・ラジギール

イメージ
  ◇◇◇ 1975年3月10日 ブッダガヤ/出発 → ガヤ/経由 → ラジギール   早朝からバス乗り場でラジギール行きのバスを待ったが来なかった。よくあるらしい。別のバスでガヤに行き、そこから乗り換えることにした。 3 時間半遅れてようやくブッダガヤの村を出発。途中ドライバーがバス停でない場所で車を止め、汚れた布を纏った老人を乗せた。 その人は車内の通路の床に片膝を立てて座った。乗客たちは乞食を乗せたことに抗議しているようだ。僕は乞食のような仙人のようなその人にすごく魅かれ写生をしたかった。しかし、この人に英語が通じるとは思えない。傍の人に通訳できるか尋ねたが、即断わられた。 誰かが僕らの話しを聞いていたらしく、「ミスタール!」と、僕を呼ぶインド訛りの英語が後ろから聞こえた。後にいた人は、地元の言葉 ( たぶんベンガル語 ) で乞食仙人に話しかけてくれたが、まったく反応がない。後ろの人は話すのを諦め「ドゥイット!」、「写生をしちゃえ」と僕に促した。僕は乞食仙人が怒ったり気を悪くしたりしないか心配だったが、後ろの人は「こいつは壊れてる」とサラッと言った。 僕は近づきスケッチブックを取り出した。すると乞食仙人は腰につけていた小さな真鍮の鉢を出し前に置いた。金を入れろということかと思い、財布を出して中を確かめた。 5 ルピー札1枚とコイン数枚しか入っていない。この状況で乞食仙人にお釣りを下さいとは言えない。思い切って 5 ルピー札をその鉢に入れた。 ブッダガヤでの一週間分の宿代と同じ 5 ルピー。無理やり写生をさせてもらったお礼だから仕方がない。 走るバスの中で写生を始めると次々に乗客がきて、僕が描いているスケッチブックを覗き込み、鉢にお金を入れて行く。乞食仙人は目がほとんど見えていないのか、一言も言わず、街に着く前にバスを降りていった。 「誰だ、この人は?」と思っている僕の気持ちが伝わったのか、ドライバーが、「サドゥー」と言った。フムフム、「サトウさん」ならぬ「サドゥーさん」か、と思っていたら、「サドゥーは彼の名前じゃない、旅の行者です」と後ろの通訳してくれた人が説明した。 サドゥーの意味はよくわからなかったが、彼の旅は楽じゃなさそうだ。 スケッチブック -- ガヤで 11 時発のラジギール行きのバスを待つが、午後 2 時になってもこない。やっぱり、...

解説コラム② / 仏教徒の聖地・ブッダガヤと菩提樹の謎

イメージ
1975年 3月4日~10日 /ブッダガヤ 水をくむ少女 馬車と現地で知り合った日本人の旅人 インド米の水田(乾期) ダンゲシュワリ洞窟 ( マハカラ洞窟、 前正覚山 ) 出家したシッダールタ(後のブッダ)は6年間、 ダンゲシュワリ洞窟で 修行をした。しかし、悟りを得ることは出来ず山を降り、ウルヴェーラー村(ブッダガヤ)の菩提樹の下で深い瞑想に入った。 マンゴー森 / 現地の人は美しい森だと言う 洞窟を登る旅人たち 現地の男性 / 洞窟の麓にて 煙草を吸う少女 マハ―ボディ寺院 ブッダが悟りを得た菩提樹があるマハ―ボディ寺院。現在はきれいに舗装されているが、1975年の当時、寺院の周りには何もなかった。 タイ寺院   ブッダガヤは仏教徒にとって聖地であることから、国際的な信仰の場になっている。各国の仏教寺院が建てられ、日本寺もある。 印度山日本寺 村の子どもたち (写真:kondo / 文:O)  ー 「ブッダガヤに無かった菩提樹の謎」 近藤氏は、岩山の洞窟( ダンゲシュワリ 洞窟)に菩提樹が無かったと回想しているが、実際は、マハ―ボディ寺院(大菩提寺)の裏側にブッダの菩提樹はあるようだ。 近藤氏に当時の様子を詳しく思い出してもらうと、(寺院の周りに)ガジュマルの樹はあったけど…、とのこと。ガジュマルの樹はきちんと台に囲われていて、その上で瞑想をしている老人たちを見かけたという。 そこで改めて調べたところ、菩提樹には「インド菩提樹」と「ベンガル菩提樹」があり、ベンガル菩提樹は別名「ガジュマル」と呼ぶようだ。このあたりから、色々な説が交差してくる。 そもそも、ブッダが悟りを得たとされるインド菩提樹は、5世紀ごろに起こった仏教弾圧の際に切り倒され、その後、挿し木で育てられていたものがブッダガヤの菩提寺に移植されたと言われている。 一方で、ガジュマルの樹(ベンガル菩提樹)を仏陀の木と呼ぶ地域もあるらしく、なぜ、そのように呼ばれるようになったのかについては、本当の菩提樹の木が切られないようにするため、ガジュマルを仏陀の木と呼んでカモフラージュしたとの説がある。 だとしたら、ここからは妄想レベルの推測であるが、本物の菩提樹を守るために寺院の敷地一帯にガジュマルの樹が植えられたのかもしれない。ある意味、その思惑通り、近藤青年も、菩提樹を見つけられなかった。あるいは、ガジ...

「無かった菩提樹」/ インド・ブッダガヤ②

イメージ
1975年 3月4日~10日 ブッダガヤにて宿泊   ◇◇◇ ブッダガヤは小さな村だが仏教の聖地。幾つもの仏教の国の独特の様式のお寺がある。 仏教のことを僕はよく知らないけれど、菩提樹の下で釈迦が悟りを開いたとされている。 でも、釈迦が断食して悟ったのは村外れの岩山の中腹にある洞窟で、そこに菩提樹はなかった。 道端に露店の土産物屋が並んでいた。「ビンボウヒマナシ」、「ジュズヤスイヨ」、「オボウサン、ジギジギスキダネー!」と、店の子どもたちが変な日本語で声をかけてくる。「ジギジギ」とは卑猥な言葉で売春を指す。日本にもいろんな仏像があるけれど、ここにも金の仏像。釈迦は仏像を作るなって言ってなかったかな?ここに働く人たちはみんな痩せているが、金持ちと仏像は太っている。「ニッポンのオボウサンもね!」と店先の子どもたちは笑う。 大正時代の日本画家村上華岳作「太子樹下禅那」には菩提樹の葉がアルミの粉の絵具で幻想的に描かれている。華岳の作品には未完に見える絵が多くある。彼の最高傑作の一つ「太子樹下禅那」もそうだ。多くの人を魅了する神秘的なこの作品に描かれた菩提樹が、ブッダガヤにあると思いやってきた。僕は、その菩提樹を写生したかった。  ーー 大都市のカルカッタと異なり、この村では、路上生活者や難民の人を見ることがない。牧歌的で穏やかに一週間が過ぎた。ドゥンガシリー岩山、スジャータ遺跡、ネーランジャガー川、マンゴ樹林バルなどを観てまわった。王家の末裔というガヤに住む大地主以外、農民や他の様々な村民は土壁とかやぶきの屋根の小さな家に暮らしていた。家の中は狭く仕切りがなく、鍋くらいしかない。外で薪を使い炊事をする。「埴生の宿」を思い出したが、歌う気になれなかった。自然の風景は日本と異なり感動的だけれど、この村の人たちの生活があまりにも貧しく、殺伐としているように感じたから。 (kondo) 次の記事はこちら↓ 解説コラム② / 仏教徒の聖地・ブッダガヤと菩提樹の謎  前の記事はこちら↓ 「汽車と馬車」/ インド・ブッダガヤ ①   読んで下さり、ありがとうございます!

「汽車と馬車を乗り継いで」/ インド・ブッダガヤ ①

イメージ
  1975年 3月4日~10日 カルカッタ / 出発 →ガヤ / 経由 →ブッダガヤ ◇◇◇  汽車の旅が始まる。日本でほとんど見られなくなった蒸気機関車がインドでは主流で、しかも、でかくてカッコいい。たくさんの人を乗せて長距離を走るから、客車のサイズも長く、連結されている車両の数量も桁違いだ。駅の中は人でいっぱいだ。客車の乗車口も人で溢れ、入れそうもない。窓からリュックサックを押し込み、次に頭を入れる。胸まで入れば何とかなる。床も荷物棚も人と荷物で埋まっている。と書くと、終戦直後の東京を想像する人がいるかも知れないが、夜行列車で行く登山ではよくあった。大学の山岳部で登山に行く時の夜行列車では、通路に新聞紙を敷いて寝た。スペースさえあれば荷物棚はベッドになった。だから僕はヘッチャラだ。ヘッチャラはインド語っぽい? カルカッタでは 3 日間ショック状態だった。深く考える余裕がなく、息をすることさえ辛かった。ぎゅうぎゅう詰めだが、汽車の中は違った。生きるエネルギーが漲っている。目に映るシーンも臭いも騒音も受け止め方しだいか?人々の混雑が回復力になるなんて、もしかしたら、戦後の日本もそうだったのかも知れない。 目的の下車駅 ・ ガヤまで 458k m、 2 等車学割で 10 ルピー (400 円 ) 、所要時間は 8 時間。インドの鉄道 の 時間はあてにならない。時々停車し、長い時間待たされた。途中の駅で「人」の字のように列車が積み上がった事故現場を通った。 大勢 の人が乗った列車と貨物車が衝突し、数百人死んだらしい。   3 時間遅れ、夜のガヤに着くとバスもタクシーもいない。仕方がなくボーとしているとチリン、チリンと鐘の音が聞こえ、馬車が現れた。ぶら下っている小さなオイルランプは前方を照らすのではなく、走ってくる自動車がぶつからないためだと、年寄りの御者(馬車の車主)はたぶん言っている。ブッダガヤまで、街灯のない道を 1 時間ほど馬車はゆっくりと進んだ。途中で自動車とは出会わなかった。屋根のない馬車の荷台に積んだリュックサックを背に空を見上げると、満天の星が輝いていた。ランプを足下に着けているもう一つの理由だ。夜空の静寂の中、ブッダガヤの村に着いた。   その夜は 、チベッタンテント脇にある安宿に泊まった。寝具なしベッド...