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解説コラム ① / カルカッタの路上生活者と難民

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カルカッタの路上生活者は、カースト(植民地支配下の身分制度とその以前からの慣習的差別)がベースですが、不可触の民はカーストの外の下で、ヒンズー教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、ゾロアスター教徒等々、宗教の差別も重なっている上、僕の旅の当時は、バングラデシュからの難民が流入した特別な時期でした。 (kondo) ◇◇◇ ◎ 不可触の民とは 近藤青年は、カルカッタで「不可触の民」の姉妹に出会いましたが、不可触の民とはどの様な人々なのでしょうか。 ** 不可触民(ふかしょくみん/ untouchable)。 カースト制度の外にある層で、カーストの最下層よりも身分が低い 。 自らを「ダリット」=「抑圧された者」、 「困窮した者」と呼ぶことが多い。 不 可触民は、街の外れや村の隅に住むことを余儀なくされ、他の層の人々と関わることや様々な場所(上階層の土地や寺院、村の井戸など)へ立ち入ること等、禁止されていた。 1950年、憲法によりカースト制度および不可触民への差別が禁止になったが、その後も、社会的・経済的な不平等は現存しており、憎悪犯罪や深刻な貧困など、根深い問題を抱えたまま、今も解消されずにいる。 ー 近藤青年が出会った姉妹も、人権を制限された大勢の人々の一人でした。 「当時、死は当たり前だった。街には、死んでいるのか死んでいないのか分からない様な人々がたくさん横たわっていて、よけながら歩く状況だった 」と、近藤氏は話しています。 ** ◎ バングラデシュの難民 難民の問題は、当時も今も困難なテーマのひとつです。近藤青年がインドに渡った当時、バングラデシュ独立戦争や第3次印パ戦争などによる難民が大勢避難してきていました。 近藤氏が言うには、「難民居留地内には、きちんとした規律があり、遵守されていた」。一方で、「大都市に人々が溢れ出てしまうと、そこでトラブルが起こりやすくなる」とも言っています。 ー ◎ バングラデシュと自然災害 バングラデシュは、地理的な条件により自然災害の被害を受けやすい。 1970年に起こった史上最悪な自然災害のひとつ「ボーラ・サイクロン」では、最大50万人の人命が失われたとされている。 この災害による一連の出来事が引き金となり、1971年、バングラデシュ独立戦争が勃発。その際、東パキスタン(バングラデシュ)で民間人の大量虐殺が発...

「サンダルとドンノバートゥ」インド・カルカッタ(3日目 )

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  ◇◇◇ 1975年3月3日 昼間ホテルを出ると路上生活者に囲まれてしまうが、その日の朝は違った。外は静かで空気がひんやりしていた。だが、安堵感は直ぐに消えた。一生忘れられない強い眼差しで道の反対側からあの子が僕を見つめていた。    僕が近づくと、少し離れたところにその子の妹が地面に横たわっていた。もう息をしていないことは直ぐにわかった。痩せているが、身長は 5 才くらいの少女だ。体を踏ん張り抱き上げた瞬間、その軽さに意表を突かれた。餓死ではなさそうだったが、ぬいぐるみのような軽さに僕は愕然とした。 ホテルの人に相談し傍の病院に連れて行くことになった。 そこは病院と言うより小さな診療所で早朝だったこともあるのか中々ドアを開けてくれなかった。しつこく呼ぶと男が出てきて前の道端に置いておけと迷惑そうに言った。僕らに付き添ったホテルの使用人の話では、ゴミ回収車のような車が引き取りに来るらしい。 姉の子が憤慨し僕は何を言っているのかわからなかった。仕方なく使用人の男が鉄橋下の火葬場へ行くように僕に言った。 火葬場ではまた値段交渉があるのかと僕は身構えると、火葬場の男は何も言わず白い布を巻き始めた。いくらか聞くと払うのかと驚いた様子で、 5 ルピーと答えた。男はその金で香と生花の輪飾りを買い、花輪を遺体の上に置いた。 そのまま火葬場の脇を流れる川に葬られた。事故や病気で亡くなった人は火葬せず水葬にするらしい。火葬の場合は薪の種類と量で料金が違うという。 姉妹はずっと裸足だった。帰り道一人になった姉の子にサンダルを買った。始めは拒んでいたが受け取ってくれた。  ホテルに戻ると、途中まで付き添ったホテルの使用人の男が路上生活者の子どもの頼みを何で断らなかったのか聞かれた。いつも断る勇気がないので、僕はインドに向いてないと言うと、納得したように「アッチャー」と言った。アッチャーはイエスという意味だが、理解したという意味だと思った。あっちゃーじゃない。 その後、彼はまじめな顔で言った。ベンガル語で「ドンノバートゥ」その意味は深い。 翌日、逃げるように僕はカルカッタを出た。   (kondo) ドンノバートゥ =ベンガル語で「ありがとう」 普段使うことはほとんどなく、心からの感謝を伝える時に使う言葉。外国人に使うことは珍しく、ベンガル語圏内でも民族・宗教...

「インドの人々と何者でもない自分」/インド・カルカッタ(2日目)

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  ◇◇◇ 1975年3月2日 早朝、ホテルの前にいる路上で暮らす姉妹の子をスケッチした。二人を描き終えたら「エクー、エクー」と言ったので、 1 ルピーを渡すと一人 1 ルピーだと年上の子が言い、更に 1 ルピー要求してきた。子どもでも彼女たちは簡単に引かない。結局もう 1 ルピーはバクシーシ(イスラム式の神の御加護)で決着した。モデル代二人で 2 ルピー。ホテルは1泊 6 ルピー。 ハウラ駅に学割チケットの申請に行き、その後ホワイトタイガーを見に動物園に行き、園内のレストランでフライドライス( 3 ルピー)を食べた。ハエはいないが砂が混じっていた。水が貴重で野菜を丁寧に洗わないからだ。仕方ない、ハエよりましだ。食事ができ余裕が生まれたのか、動物園を出るとまわりの気配を感じられるようになった。 この先に何かがあると直感し道の奥へ向かった。そこに褐色のテントが広がっていた。   テントは屋根と柱だけか褐色のボロ布を棒に付けた陽除けに近い。近年のニュースで見る国際支援組織のしっかりとしたものではない。そこに街の喧騒はなく、横たわる人たちは死んでいないようだが生きている気配もなかった。何故かわからないけれど、この光景を描かなければならないと思った。道具を広げようとしたら佇んでいた人たちが立ち上がり僕に近づいてきた。僕は襲われるような気がして慌てて逃げ出した。ホテルに戻り、また慌てた。カバンにはスケッチブックしか入っていない。筆箱を忘れてきたらしい。今から戻っても筆箱はない気がした。旅の始めから筆箱を無くすなんてと一瞬途方にくれたが、気を取り直し、あの場所へ戻ろうと僕はホテルを出た。 帰りに乗って来たリキシャがホテルの前にいた。行き先を告げると首を斜めに振った。 OK という返事だ。リキシャの男は何も聞かず来た道を行く。明治時代、日本も人力車があった。インドでも「リキシャ」と呼ぶ。インドの他の街では、リキシャが自転車と連結されていて、人がペダルを踏んで動かすが、カルカッタは人が引く。黙々と走る男の足は棒のように痩せている。灼熱と喧騒の中を流れるように行く老いた男の後姿を見ていて、何故か涙が出ていた。惨禍の人々の風景に、何者でもない自分がいる。   その場所に戻ると、前に気付かなかった事務所らしい建物があった。そこから職員風の男の人が出て...

「旅の始まり」/インド・カルカッタ(1日目)

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◇◇◇ 1975年3月1日 インド・カルカッタ ダムダム空港 から市街へ向かうバスの窓から僕は故郷の新潟のような遠く広がる水田を眺めていた。旅に出る直前、インドから帰ってきた大学の先輩に聞いていたカルカッタの空港から市街まで延々と続いていたという難民居留地がない。街に入る少し前にようやく黒いテントの塊が見えた。 グレートイースタンホテルの前でバスを降りるとボロ布をまとった人たちに囲まれた。難民なのか乞食なのかわからない数十人の人壁ができ、人以外何も見えない。褐色の顔の強烈な眼差し、別世界に降り立った SF 映画のようだ。 飛行機の中で声をかけ合い、若いバックパッカーが 9 人集まった。みんなで空港のタクシーの客引きと値段の交渉をして、 35 ルピーでバス 1 台を借りきることになった。見るからにオンボロのバスだが、インドに着いた実感が涌いた。 1 ドル 305 円、空港で 12 ドルを 91.8 ルピーと両替した。 1 ルピー約 40 円。予定をしていた安宿のホテルパラゴンは満室で、向かいにあるモダンロッジに泊まることができた。 ホテル近くにある美術館に行った後、レストランで初めてカレーを注文した。アルミ皿の上のライスにはハエが集っていてビビッていると、ボーイの少年がスプーンでアルミ皿をパーンと叩いた。ハエがびっくりし飛んだ瞬間、さっとスプーンですくって食べる。どうだと言わんばかり彼は自信たっぷりに微笑んだ。カレースプーンは熱湯の入ったコップに入れられている。衛生的だとアピールしているけれど、ギャグだ。結局、僕は食べる勇気がなく諦め、露店でオレンジを買い夕食にした。 インドでは値段の表示がなく、一々交渉しなければならない。それが面白い人はいいけれど、僕は疲れる。何も言わず 1 ルピー札を出すとオレンジを 3 コ渡された。僕の後にいた現地の人はやはり 1 ルピー札を出し同じオレンジを 10 コほど受け取った。ツーリストプライスは仕方ない。 (kondo) ‐ *ルート  Tokyo Japan →   Bangkok THAI →  Calcutta INDIA - *カルカッタ  =現/コルカタ (インドの西ベンガル州の州都) *ダムダム空港   =現/ネータージー・スバース ・ チャンドラ・ボース国際空港 (...

はじめに

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はじめまして。ライターのOと申します。今回、日本画家・近藤幸夫氏から依頼を受けて、旅の記録を共に作ることになりました。 ーーー "美術家・近藤幸夫"とは 近藤幸夫氏は、1953年生まれ・新潟市出身の日本画家です。略歴につきましては、 こちらのHP をご覧ください。 私は近藤氏を「センセイ」と呼んでいます。先生は、画家であると同時に、東京都・国立市にある 「中本達也・臼井都記念 芸術資源館」 の館長でもあり、絵画教室の先生でもあります。みなさん「先生」と呼んでいるので私も自然とそうなりました。でも、実のところ、 "行動力あふれる人生の師匠” という意味も密かに込めています。 先生は芸術家で探求者です。普通だったら目を逸らしてしまいそうなことを、ずっと考え行動し、表現して来た人です。話を聞いていると、世界各地に仲間や友人がいて、地球ってこんなに小さかったけ?という気持ちになります。私としては、言語をどうしているのかが最も不思議です。でも先生にしてみれば、そんなこと関係ないようです。 そして、先生は威張りません。いつだって、子どもとも大人とも同じ目線で生きてるって感じです。人というものを信頼しているのかもしれません。ユーモアを持って分け隔てなく誠実に接しています。 ということで、私は喜んで旅のお供をするつもりです。みなさんもぜひ、お付き合い頂けたら嬉しいです。 できるだけ若い世代の方にも伝わる様に、深掘り解説コーナーも作る予定です。なんせ50年も前のことですので、知らないことばかりです。でも、どの旅路も、今につながっています。近藤青年が、現場で体験した"波乱万丈"の出来事をぜひ一緒にたどってみませんか? ーーー ユーラシア大陸の旅の記録・3部作。 このブログでは、3つの旅を順を追って少しづつ振り返っていきます。 主に、 ▪️1975年/1978年 *美大生・院生  インド・西南アジア 研究取材の旅 ▪️2012年〜 *日本画家・哲学博士  ロシア 巡回展の旅 番外編として、 ▪️1980年~83年 *美大卒業後、渡米   ニューヨーク大学 留学 ーーー なぜ、"今"、かつての旅を書き記すのか。 きっかけは、ロシアのウクライナ侵攻だったと、先生は言います。 ロシアには美術を通して知り合った仲間や友人達が多...